「大海を舞台に活躍した人びとが住む」松浦地方の歴史[戻る]

九州北西部、旧肥前国のうち玄界灘に面する海岸地方を「松浦まつうら」という。玄海原発のある玄海町、隣接する唐津市・松浦市などがそれにあたる。
「松浦」は元々は「まつら」と読み、その起源は『魏志』倭人伝に記載された末蘆まつろ国に由来するものと考えられ、原始・古代より「大海を舞台に大陸・朝鮮半島と向かい合ってきた地方」として、数々の歴史に登場する。そんな松浦地方の歴史を、少し点描したい。

日本で最も古い水田跡は、福岡県板付遺跡とともに佐賀県菜畑遺跡で、後者は唐津市内に残っている。ともに朝鮮半島から入ってきた水稲耕作が早くに定着した地域といえる。
古代の律令国家が10数回にわたって派遣した遣唐使は、先進的な政治制度や多くの文物を日本にもたらした。そのうち、8世紀・9世紀に派遣された遣唐使の一行は、「南路」といって、博多を出発したあと松浦地方の北方を通って東シナ海に出て、中国・長江付近の港町をめざした。
鎌倉時代に2度にわたって行われたモンゴル襲来(元寇)では、松浦市鷹島付近でも戦闘が行われ、元船が沈んだ海域では、現在海底遺跡の調査が行われている。
南北朝の動乱の頃から活躍が目立つ倭寇は、14世紀には前期倭寇と呼ばれ、日本人主体で対馬・壱岐・松浦地方の住民が中心であった。いまだに倭寇といえば「日本人の海賊」とイメージする人も多いようだが、実際は異なる。つまり、海賊行為を日常としていたわけではなく、穀物などの収穫が少ない上記3地方の住民は、朝鮮半島などに出向いて、交易を行って生活の糧としていた。当時は国境などはない。彼らは日本と朝鮮半島を自由に行き来し、交流を深めていた。そして、ときにうまくいかないときに掠奪などをしたことから、倭寇とも呼ばれるようになったという。
再び倭寇の動きが活発となるのが、16世紀、戦国時代であった。この時期の倭寇は、後期倭寇と呼ばれ、主体が異なる。中国・明の国力が低下するなかで、中国の華南などに住む中国人が五島列島・平戸・松浦地方に拠点をおき、東シナ海を舞台とする交易で活躍した。そんな彼らも、ときに掠奪を働く。そこで、倭寇と称されたわけだが、後期倭寇で最も有名なのが、日本人を母とする王直であった。彼は、1543年種子島に漂着し鉄砲を伝えたことで有名なポルトガル人たちを乗せていた船を所有していたことで知られる。彼などは、東シナ海を縦横無尽に行き来し、南蛮人とも交流を深めていたといえる。
松浦地方に話を戻すと、16世紀末、豊臣秀吉が晩年2度にわたって朝鮮出兵を行った。そのとき、日本における前線基地としてつくったのが、肥前・名護屋城であった。ちょうど、玄海町の東方に位置するところで、城跡や大名らの陣屋跡が残っている。城跡のある山からは、天気の良い日には壱岐・対馬、さらに朝鮮半島南端まで望むことができるという。近代になっての植民地統治とともに、朝鮮半島に住む人びとに大きな痛手を与えた出来事ではあったが、出兵した大名らの一部が連れ帰った陶工らによって始まったのが、日本における磁器生産であった。有田焼(伊万里焼)はその最も有名なものであり、鎖国が続いていた江戸時代、長崎を通じて海外に輸出され、中国・ヨーロッパでも広く知られた。
松浦地方に隣接する平戸には、戦国時代にポルトガル・スペインが来航した。領主の松浦氏がキリスト教に厳しい対応をすると、代わってオランダ・イギリスが商館を設置し、鎖国が形成されるまで、海外との貿易の舞台となった。
近代に入っての松浦地方は、炭田で活況を呈した。そして、唐津はその積み出し港として発達し、大手商社の支店などもつくられた。空襲にあわなかった唐津市内には、今でも、当時の石炭商らの豪邸が残っている。また、日銀本店や東京駅などを設計したことで知られる建築家の辰野金吾は、唐津出身であった。
敗戦後の日本は、米ソの冷戦のもとで、西側陣営に属する道を選択した。冷戦下においては、中国・北朝鮮は、地理的に近くても、遠い存在となってしまった。しかし、21世紀に入った現在、アジア各地から多くの観光客が九州にも押し寄せ、経済的な関係も密接になっている。東シナ海にも近い、日本海にも面した松浦地方は、まさに観光産業などで飛躍できる可能性をもつ地域といえるのではなかろうか。
原始・古代からの歴史を振り返るとき、滅びゆく恐竜のような原発産業などに依存するのではなく、新たな産業を生み出す力を秘めた、海外進取の精神あふれる松浦地方の人びとであると信じたい。

(文責 片山純子) 2017年4月17日公開